ホウツキブログ
2025年08月04日

フツウ沼

私は学校の教師というものにことごとく嫌われていた。態度が悪いというんだが、そんなつもりはないけど御しにくい生徒だったんだと思う。

学校というところは教師のためにあるんですからね。病院はお医者のため、国会は政治家のため、と言ったのは立川談志だ。

御しにくい子供はいらないというのが基本学校の在り方だとは思うが、なんかちょっと難しいことや変わったことを作文に書いたりするとすぐ親が呼ばれて絞られてたが(ちょっと教師を怒らせてやれ、くらいな気持ちはあったのでこっちも悪いが)中学2年の時の国語の先生は母を呼びつけて(また説教されると思って行ったらしいが)宝槻さんは文章を書いて食べていけると思うから、もっと勉強したほうがいいと言われたらしい。母はまた変わった子だと言われたという解釈で喜んでもなかったが。

来月末今年も「愛を歌う」という生徒とやるコンサートで昨年と同じく自由学園を使うが、ここ行くたびに思う。自由学園に入れてほしかった。小学校の時、ホウツキさんは自由学園に行ったほうがいいと指摘されてたというのに、また母は変わった子だと言われたと怒ってたが。でも変わってんだろ、ついでに言うならあんたの夫も変わってたし、そこ好きだったくせに、なんで子供はみんなと同じ「フツウ」がいいんだよ。

大人になると「個性的」とか言われて、まあいいことになってるというか、偏狭な教師もいないからなんでもいいわけだが、どうせ「個性」で食べていくことになるなら「自由学園」でトットちゃんのように過ごしたかったなあ、と思う。それほどの「個性」でもないから叩かれたり矯正されたりしてるうちにヘンテコなものになっちゃったではないか。

 しかし老年になってみれば「フツウ」ほどつまらないものはなく、そんな人になれなくて心からよかったと思うし、フツウな人をそのフツウ沼からお救いいたそう、と思ってしまうが、いやいやフツウの仮面をかぶっている人ほど「個性的」よ。フツウに固執するから割り切れない「あまり1」とか「あまり2」とかの端材が蓄積して、それは訓練してないから使い物にならないし、ないことにして押し入れに隠してるがいっぱいだし、そうだ、うたでもうたいませんかね?

 みんな違ってみんないい(相田みつおじゃないよ、金子みすず。彼女の詩を読むと涙が出る。こんな男尊女卑で「フツウはフツウだフツウそうだ!俺は男だ、女はすっこんでろ!」おやじが跋扈している時代になんと異端で本質的で繊細な魂なんだろう。教師にいじめられてるくらいなんでもなかった)というが、案外フツウの人々がその押し入れに入れてる使い道のない「個性」で苦しんでいるように見える。

うたをうたってみる。みんなほんと「個性的な声」だわ。これを「フツウ」にするのが声楽の修行です。1分聞いてるくらいでは誰の声だかわからないと言うのが正しいクラシックの発声です。でもクラシックのピアノもそうです。だから時間がかかるし、「個の抹殺」なようなことを毎日修行した挙句にその出来上がったツールで「表現」まで持っていかないとならないし、大体は毎日修行なところでゲームオーバーになるから幸い、でもこの先医療が進んで人生200年時代が来たら、一体その修行した声で何がしたいのさ!と突きつけられるんだろうからクワバラクワバラ。

筋トレしてムキムキにしても大抵の人は「大会」に出ないし、彼女にでも見せて自慢したってキモ、と思われるだけだし、その肉体を道路工事等の肉体労働に使うでもなく、涼しいオフィスでパソコン叩くだけの筋肉しか使わない日々。自分で喜んでるだけと言う状態だろうが、そういう修行が本能が歪んだ人間には必要だ。「フツウ」からの脱出、どうしてそんなことしちゃうかね?

ドローン飛ばせばいいのに、命懸けで冬山登山したり、潜水艦とか色々開発したのに自分で海に潜ってみたり、いいないいな人間っていいな、と思うのはこういう変態行為を命懸けでやっている人を見るときだ。

うただってそうよ。

スカラ座に立てるわけでもなく、今更何になるでもないのに毎日修行。昨日より何かちょっと良くなったとか喜んだり、そう、イタリア行くと劇的にうたいやすくなるが、それは「個人の感想」に過ぎません。

でもこれやってる限り人は以上のような理由で「ヒト」から「人」になれるんだと思う。

まとめることもないんだが、わかりにくいと言われるもので。

みんなの思っているような「フツウ」幻想に振り回されることなく、変態的努力で使いものにならない「個性」を矯正して「フツウ」を獲得しよう。その先で個性的な活動をしようではないか。

もっとわかりにくいか。

 

 

 

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