学校の教室でゲリラ的にオペラを
亀戸のタリーズコーヒー。後ろの老人3人組。米が2000円なんかなるわけないじゃないか、親父に似てホラ吹きだ、などとニベもない。セクシー大臣のことか。
じいさん2人にばあさん1人、午前中11時のタリーズコーヒーでジジイ放談とはまた幸せの光景。「会社員」の挙句はここか。いくら「趣味」に生きようが「友達」いっぱいいようが、「お金」に困らず旅行三昧出来ようが
やだな
何が嫌だと思うんだろう?「期待」されてない感じが嫌なのか?いや、私に限って言えば小さい頃から期待されない人生だったので、そんなことは全く気にならないばかりか、もう放っておいてほしいといつも思っていたし、「主婦」って家族以外にあまり期待されていない存在だが、家族もどっか行けばさらに期待されず、私に限って言えば早く誰にも期待されない時代が来ることを待望してたわけだが。
多分、もう期待もされていないのに、自己主張が多い感じが嫌な感じなんだろう。
これはなんか数式にできるかも。
今の自分の自己顕示欲の総量−今の自分の状況
これがゼロに近いほうがいい。そこ値が大きいと色々なことしでかすのは老人に限ったことではないだろうが、「自分の状況」は忙しいとか仕事が辛い、体が不具合、そういうものがあればあるほど値が大きくなるとすれば、元気で時間があってお金もあってという状況では引くものが少なく、出てくる答えは丸ごと自己顕示欲、丸ごとの欲望だったりでそれらは使い道がない割にガサばるし、何かその使い道のない「欲望」の「使い方」について私は熟知しているつもりであるが、家の押し入れに入れて気になってるけどどうにもできず膨れ上がるばかりで・・。
「人は自分がピンではないということが言いたいがばかりに愚にもつかないことをしでかす」ドスト
その手の自分が自分であるという「主張」を封じ込めることはもちろんできなく、でも日常で使いこなせるほど日常はあなたに期待していないし、つまり「仕事」がない。
でもそこで「自分の状況」にいきなり「舞台でうたをうたう」などをぶち込んでみたらどうだろう。ほとんどの人はマイナスの答えになるはずだ。
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マミーシンガーズ25周年記念コンサート。
劇をやりたい派とコンサートで派で少し揉めたが、まあ結果オーライでなかなか好評だったと思う。次は30周年か。なぜこういうことは五進法なのである。
次ぐらいはいるだろうが次次回はどうだろう。もう後進に道を譲らないとならないが、なかなか新しい人が入らないのである。でも演目も子供役から老人役の特殊詐欺撲滅劇の方に移ってきているのでいいのかもしれない。
最後に代表なので何か「お言葉」をいうにあたって、楽屋で少しは考えていたんだが、「25年」と言った途端にグッときてしまいその先で話すことは全部想定外のものになってしまった。
25年・・。
私の人生のプライムな時間だったんだ、これを立ち上げた時はほんと色々大変で、さっきの話で言うなら「自己顕示欲」もボロボロのカスカスであった。「お母さん」って優先順位を2番目以降にする人のことである。それは「生物」にとって危機だし生物とは利己的に生きるようにプログラムされたものであるからそここそ「子育て」の辛さなのである。
まして「歌い手」は何もかも自分の「うた」から考えなくてはいけないと教えられるもので、その技術を習得するだけでも時間もかかる。ずっと自分のことばっかりしてなくてはならない。さっきの数式で言うなら自己顕示欲を涵養するためになるべく「生活」は「小さく」しなくてはならない。
そんなことなのに子供なんか作っている場合じゃないのに作ったみんなでそこを逆利用してグループを作ったのだった。あえて「マミーシンガーズ」とつけ、むしろ各自の子供の幼稚園小学校に営業をかけて行った。
日本のほとんどのクラシックの「演奏家」は「仕事」がない。「自主コンサート」を行いチケットを売ってトントンになればまあいい方。ほとんどは赤である。そこで「教える業」を生業にするわけで、もちろん私もそうですが、今になって思えば「教える」とは自分が「分かる」「できる」だけではできない別業である。向き不向きがあり、向かなかったりするときは「普通の仕事」についたり「主婦」になったりする(女に限りなのか?そう言うところいつまでも男女平等にならないよね。ここ書き出すとカッコ内が膨れ上がるからやめるけどさ、「女を食わせたい」「食わせて一本取りたい」男がいる限りこの狸と狐のばかしあいは終わらない。それ私が言うとルサンチマンに聞こえるだろうがさ、「食わせてもらえない女」ではあるが煮ても焼いても「食えない女」と言われた方がまし、男を食わせられるかっこいい女になりたいが、食わせてもらっている男は「ひも」と呼ばれるのに「主婦」はヒモではないのか?
まあまあセンセ、そんなところ「平等」にしてなんの徳がある?夫婦は同じ釜の飯(主婦が作った、夫が買った、今5キロ5000円だそうだが)を食い、同じ家に住み(主婦が掃除した、夫がローンを組んだ)同じ姓を名乗り、なんとなくの家父長制を存続していくのがなんとなくシアワセなんですよ、それがフツウと言うものです)
カッコ内が長い。そう、クラシックの演奏家によほど上手くない限り仕事なんかないのである。そこらでやるから安くやるから演奏させてちょ、という営業をかける。それはとても新しい試みだったと私は思う。
長い時間技術の習得に時間も金もかけてきた私たちが、そのプライドを捨てることは容易ではない。でもその結果どうだろう、ほとんどの人たちはクラシック音楽なんかかったるくて聴かないし、その良さを知るには子供の頃から聴いてなくてはダメだと思うが、米5000円買うのに忙しい子供のいるファミリーがなんで1人何万もするコンサートのチケットなんか買いまっしゃろうか?それも騒いだら怒られるから綺麗なおべべ着てお利口にしてなきゃいけまへん。
小学校の音楽の授業にゲリラ的に入り込んで「フィガロ」を「コシファン」を日本語でやる、私はこの発想をいまだに捨ててない。
二期会研修所に通っている生徒というと玉石混交ではあるが、それでいい、とにかく「生」がいい、「近い」のがいい「しょっ中」がいい。近くで聞くと面白いから。圧倒されるから。その声に、作品に。
今マミーシンガーズはその半分は成し遂げていると思う。小学校に年間10回近く入り込み講演できるようになった。それは「フィガロ」や「コシ」ではなく道徳的内容であることが私は残念ではあるのだが。行政から仕事をもらうとはそう言うことなのだ。不埒なオペラなどできるわけない。さてそれでは民間で何処か借りてやる、となれば「子供向けコンサート」になるわけだが、日常的ではないし、一般的でもない。意識高い系の家族が思いつきで来るだけだ。
クラシックを聞いたからどうだというんだ?いや少なくとも「生の声」には力がある、言葉より早く、強く、直接響く何かがあるジャンルの一つである。
「子供の健全育成」いや、
「生きる力」なんかにはならないよ。文化とは生きる力を削ぐ何かだ。でもそれを「成熟」と呼びたい。それは自己顕示欲を削ぐものでしかないが、そうして人類は「衰退」するのかもしれないが、文化とは禁断の木の実なのだ。本能の壊れた人間にしかないものは戦争と芸術なんである。
であるならセクシー大臣言ってくれ
米が高いなら食欲を抑えたらいいではないか。米高騰ダイエットでセクシーになろう。