飾りじゃないのよ「声楽」は
下から繋がった声でうたおう、というのは声楽というものを始めたら初めの頃に教えられる項目になるが、偉い先生についてたりすると、えー下って何?とか、何をどこへ繋げんのー?とか聞けないものです。
しかし、この年になると思うが、「偉い先生」というものに散々ついてきたが、偉いの実態ってなんだろうと思うがさ。
で、じゃ「下」ってどの辺?横隔膜へん?もっと下?繋げるってどこと?頭?口?
すごく抽象的で申し訳ないが、答えを言えば丹田から頭(鼻腔)というような答えになるかな。大体丹田なんかどこにもないのは「心」と一緒だが。
でも繋がってないこえと繋がっている声はすぐにわかる。私の言葉で言えば嘘な声か本当な声か、ということになるが、イタリアのルチア先生は一声出して繋がってないと、いきなり「NO」と言ってその先うたわせてくれなかった。
でもまだいい方で、二期会の友達のイタリア人の先生は息吸ってうたおうとすると、「だめだ、あなたはうたおうとしてる」と言ったというが、そういうことも最近よくわかるようになった。
声楽って極めて内的行動なのよ。ピャアピャア明るく声出しましょう、ということとは遠い。でも「本質的な声」はサントリーの後ろまで届く、いや、スカラ座の末席の人をも震わせることができるのだ。
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嘘声、と言えばもうレッスンで何度も皆さんにお話ししていることだが、耳鼻科によくいる親子、ママはもうほんとキャバ嬢かというくらいの嘘ごえで子どもと喋るんだが、どうした、子育てはそんなに辛いか・・。
35年前になるが、上の子を公園に連れていってた頃、もうそれは子どものため2割、あとは母親の精神が破綻しないためにママ友と徒党を組むために行っていたので、子ども同士が喧嘩しても「自分達で解決しなさい!」などと言ってママ話に熱中してたものだ。子どもと2人で家にいるってほんと苦痛なのよ。無論子どもは可愛いよ、でも大人と話したい。人嫌いであった私ですら誰かと喋りたくてしょうがなかった。
公園は本音をぶちまける場と化していた。こんなところで子どもと取り残されちゃってよー、といった二級市民としての不平不満。おいおい、一流短大出て一流会社に入り一流会社員捕まえて22歳で寿退社、文京区にそこそこのマンション住めるのは自分の努力と器量の賜物だわあははは、だがなんだよ、子どもできたら毎日お砂場か・・。結婚してない友達はまだ楽しそうに遊んでるよ!と言った不満が充満していたのだ(みんな20代かせいぜい30前半だった)この頃の「専業主婦」というのは決死の覚悟で結婚に突っ込んでいたので、もう引き返す切符は持っていないのである。このまま共白髪まで夫の収入でやっていく覚悟、子ども夫周辺の人間関係しか持たない覚悟、夫の価値観、世界観、人生観、太鼓持ちのように全部肯定、あるいは「尊敬」できる覚悟(そのために短大だし2年しか務めないし、「何も知らないフリ」が「何も知らない」に成熟するのが大事)いやあ覚悟が違った。
毎日幸せ、毎日ゆっくり、毎日暖か、毎日愛に包まれて・・
いえいえ、人生はそんなもんじゃない!を子どもができて知る。オペラがある理由もそこにしかない。人は絶対「清流」で生きられない生き物だ。
公園でのママ話もヒートアップ、話が終わらず(子ども達はとっくに帰りたがっている)そのままどこかの家に子ごとなだれこむことも頻発。息抜きと称して結構な頻度でママ友飲み会もやっていた。夫もご苦労さんなことであった。
「対岸の家事」は秀逸なドラマであった。原作があるようなので読んでみようと思うが、そう、「家事」ってほんと時間取られて何か魂まで抜かれるようなところがある。それを「専業」にしてはいけない(仕事にするならいいと思う)と思うが、なぜかと問われれば、それは「愛」を伴うからだ。
愛の労働なのだ「家事」は。
誰かとカップリングした途端に「家事」は愛になってしまうのである。そして愛というものは無償の愛などほぼ語義矛盾、愛は対価を求めるものだ、普通。
対価として何をもらうか?それを貰えばますます二級市民への道。でもいいじゃないの幸せならば・・。
そういう昭和ブルースを我らは公園でかつての新宿フォーク集会のように徒党を組んで謳ってたのである。
3年間私は「卒業証書」がもらえるくらいこの近所の「水道公苑」に通った。みんな幼稚園に入りその関係は終わったけど。その後はお決まりでみんな「教育ママ」になり、でも子ども達はなるようにしかならないを知るにいたり皆もう「老後」。
その5年後、下の子だけを単独で同じ公園に連れて行くようになったが、全く様相が変わっていた。ママたちは「自分の子ども」と遊ぶようになってた。少しはお話しするけど、かつてのようなママ同士の盛り上がりに全くならない。子どもと離れたいから公園に来たんじゃないの!?と思ったもんだが。
その挙句に「嘘ごえママ」か。自分の子どもとも繋がんなくていいのか、それを拒絶しているのか、そういう声出してると、いきなり「本質」が噴出して「虐待」になるじゃないの?なんていうのは昭和ママの嫌疑。
つまりどんどん誰かと「本質」でつながる必要なんか無くなって来たんだな。自分のことは自分でできるし、人に助けてもらえなくても代替してくれるものはいくらでもあるんだろう。
「それでも人しか〜愛せな〜い」と髪の毛をかき上げながらうたう武田鉄矢になってしまうが。
他人をあまり必要としなくなっていくのかもしれないが、生きている以上は「自分」は死ぬまでは付き合わなくてはならないものですから、下から繋がった声を出せた方がいいと思うんですよ。これ一発でストレスは解消できることはお約束しますが、下から繋がった声を出すということはそれほど簡単ではないと思う。
つまり、多くは自分は自分に嘘をついているからだ。
イタリアの先生って「本当に偉い」に違いないが(殿堂スカラでプリマ張ってるんだからね)シンプルに下から繋がった声でうたえ、の技術を教えてくださるが、やはりお家芸で、「声楽」がお紅茶、おピアノ、「お声楽」になっていないからね。飾りじゃないのよ「声楽」は。