A Milano
今回のイタリアは生徒全員のレッスンを一言も漏らさない勢いで聞いているので、大変為になっていると思う。今日はお休みなのだが、練習室を借りて復習してみたら今の今ならいろんなことがわかるようになったと思う。でも「わかる」という時制はいつでも完了しないのではないでしょうか?
第一教えるのはこれで随分よくなっているはずだけど、他の人のレッスン見てると思うけど、その人にはその人の「声」があり、「発声」があり、それを直すと言うことは「否定」ではないのかあるのか、いや、必ず誰でもできる道を見つけたいわけだけど、少なくても「みんな違ってみんないい」と言うようなことはないので、「そうなっちゃってる理由」を見つけるというか。しかしバルバラ・コスタ先生の発声、フレーニに師事したという正統ベルカント、近くで聞くと素晴らしい上にも素晴らしいが、なんでもうたえる上に朝から晩まで全く声の出し惜しみなし、全部手本を見せてくれると言うのはどう言うことだ?
こういう人に私はなりたい。
しかし私においては、思えば遠くへきたもんだ、と千昌夫をうたいたくなるよねー。まず距離が遠い、次に私は声楽をこんなに突き詰めるはずだったろうかと思う。少なくとも小学生の卒業時点でなりたいものは小説家だったし、その後もそれになりたかったはずではなかったか?大学だって文学部を落ちて社会学部に行ったんだべ。
何がどうしてミラノで修行してるんだろう?
まあいい、人生なんかノープランだ。中学校で頭悪いと周囲には多大な期待もかけないですむと言う良さがあるよねー、みよこ生きてればいいぞ、大学行ってもいいぞ、中退してもいいぞ、音大行ってもいいぞ、学生と結婚してもいいぞ、離婚してもいいぞ、なんでもいいことになってたが、そんなことは本当にお父ちゃんが言う通りどうでもいいことでした。
100年経ったらみんな死ぬんだから好きにしろ、とお父ちゃんは毎度言ってたが、もう一つ言ってたことがある
本当のことが知りたい
その「本当」ってなにさ、とガムをかみかみ空き缶でも蹴りながら私は思ってたもんだが、父ちゃん、もしかするとそれは「声楽」なんていう、父ちゃんはシンフォニー好きだからキーキーした歌は「やめてくれー」だったと思うけど、「本当」を見つけたくて、こんなミラノくんだりまで来てるんかもしれません、その「声楽」で。
親の言うことって結局最後はちゃんと子どもは聞いて守るんですね。
私が子供たちに言い残していることってなんだろう?きっと「言ってない」ことを「聞いてる」んだろうけど。家は綺麗にしろ、くらいは伝わっているか、隣の娘のうちに行くとちょっと?だが。
ミラノに来てうたの「本当」を見つけよう、自分の発声をどうにかしよう!と来ているわけだが、「出不精」は変わらず、ホテル、練習会場(今回徒歩7分)スーパー、飲み屋以外行かず、朝の散歩も参加せず、こういうの変えないとダメかなあ、と思ってはいるが、なんとミラノは暑いです。湿気が少ないとはいえ(朝晩は凌げます)日中はトースターで焼かれるよう。熱中症で死亡とかないんでしょうか?ホテルはダイキンのクーラーで大変快適。さっきスーパーで毛抜き(忘れた)を買ったが、全然抜けない!日本の製品ってほんとクーラから毛抜きまで優秀。