声は出さなくなると出しにくくなる
声は出さなくなると出しにくくなるものだ。
私は普段おしゃべり好きでもないし(議論好きだが)明るい性格でもないし、声楽の言い方だと空いてる方でもないし上がってる方でもないから、今日のように月曜、休みだと夕方にはどんより何も喋らない老後家にいるオヤジみたいになってしまうのである。
昭和のオヤジは稼いでることをいいことに奥さんをこき使ってきたものだが(というかなんか下に見てたというか簡単にいうと馬鹿にしてたんだと思うが)奥さんも「稼がない、稼げない」のを言い訳にオヤジを「尊敬」したりするふりをしてるうちに鰯の頭も信心からで、本当に尊敬してしまったりしてたようだが、それは「今」からみると可笑しいばかりだが、今のリアルだってそのうち笑われることになるのだ。人は一つの時代しか生きられないのだとこの頃よく思う。
それは昭和高度成長期劇場ともいうべき特殊な時代だったのだと今更よくわかるが、高度経済成長の少しあと、その余韻を残した時代を生きた中途半端な私は、そのうえばか高校出身であり、もう2回目のクラス会では結婚しているものがほとんどのような(高校→短大→腰掛け就職→寿退社)雰囲気の中におり、そんなものなのかと思いつつ、何もできないが、何一つできないが、そんな生き方絶対嫌だと全身で抵抗しているうちに2年くらい引きこもってたが、うちの親が変すぎていて、就職しないで全然結構、どっこも行かなくて全然結構、という強い主張を持っており、100年経ったら死ぬんだから好きにしなさい、という家訓が自由すぎて、これまた何していいかわからないのであった。
私はある程度子供はレールに乗せるべきだと思ってる。好きにしていいけど、生きていく「ツール」を得るまでは努力しなくちゃならんし、くらいな普通な考えはあっていいと思う。学校行かなくてもいいが学校くらいいけないとその先めんどくさいのではないか、というのは親心であるが、いや親の保身かもしれないが、いきなり「好きにしていいよ」というのも割と何にもできないのは私が証明しているので繰り返さなくていいと思う。
そう、夕方には昭和のオヤジのように寡黙になってしまう話だった。家の中劇場で(もう会社のような遊び場は終わったのである)奥さんを家来に威張っていても家の中は奥さんの牙城でどこに何があるかわからないし、これは奥さんの策略なのかもしれないが、食べることの基本食べるものを作る、という能力を失っているし、テレビを見てるしかない・・いやいやそんな生き方はごめんですと「趣味」に生きるのもいいことだが、昭和オヤジは基本ホモソーシャルでの勝ち負けを気にしすぎているから楽しく遊べないのである。
うちの教室も多数は「奥さん」の生徒だが、たまーに男の人も来るが、続くのは自分を変えようとすることに抵抗がない人たちで、立派なことだと思う。きっと老後は「成功」するであろうと思います。
で、都度都度横に外れてしまうが、月曜は私が昭和のオヤジになっているということを書きたかったのだ。私は「稼いでる」のをいいことに食事作りはしない。買い物もしない。掃除はししろーのやり方が気に食わないから自分でやるが、そして月曜はレッスンがないので喋らない。喉を労ってるとかでもなく気分がオヤジで喋りたくないのだ。これが毎日になると絶対喋りにくい人間になるに違いない。「嚥下機能」も低下するのはその手のオヤジだと嚥下の専門家の生徒が言っているが、喋らないからだ。ましてうたなど絶対歌わないと思う。
合唱を2つやってるが、絶対オヤジは入ってこないのである。いや、「どこどこでバッハの何ちゃらを歌っただのオヤジ」というジャンルもあるが、難しいのは楽しいのだろうか?そうい難しいのじゃないととても取り組む気になれないという「難しい考え方」は特にうたに向かないと思うが。
朝から家でミュージカルのようにしたらどうだろう?喋るどころか全部セリフをうたっちゃうっていうのは?
オヤジに限らずみんなそうしたら楽しいのに。少なくとも嚥下障害による誤嚥性肺炎は減るだろう。血流も良くなって免疫が上がれば病気も減り医療費は何%か減らせるかもしれない。
声って「気分」とか関わっているからね。だから声出せば「気分」も変わると思います。