ホウツキブログ
2024年10月28日

マニュアル化

 今日は亀戸のピアノの日、自分のレッスンだけど、来るたびに思う、練習が荒いなあ。というかよく考えてない練習を機械的にしているので、結果出てくる音が本当つまんねー。そこビシビシあるいはちくちく指摘される。

余談:にしてもピアノは徹底的に小学校までに音階とアルペジオを叩き込み、小学校卒業までにバッハのインヴェンションは3声まで終わらせておかないとどうにも弾けるようにはならないというような話・・。それって、然るべき先生について親が見張って毎日やらせるとかではないととても出来ない。大昔はピアノ買えるうちが少なかったが、今どきピアノ買えないうちもそうはないだろうが、みんな「買わない」もうそこで終了だからいいけど、買ったとて、それなりの「わかっている先生」につけて親が鞭でも持って後ろに立って音階とアルペジオを弾かせなくてはならんしその練習は最も「つまらないもの」である。「好きなことをやりましょう」な時代には難しい。私は小学校時代は「泥刑」しかやってないんだし、言われればやったけど、まあお母さんがわかってなかったからダメだったわ。ピアノが将来弾けるかどうかは8割くらいは生まれた「おうち」にかかっている。でもなんだってそうではないか。だから私はあらゆる差別は虚しいと思っている。どこで何に生まれるかなんて誰もどうにも選べないではないか。でも結局その「お家柄」「お国柄」を生きていくしかないという不自由。そこいくと結婚は自由意志で決まった場合(政略でなければ)あんたが好きで選んだ、と言われるわけだが、もうそれについてなんの反論もできないが本当に「理不尽」な虚しさに襲われるよね。最近知ったんだが、たまに飲んでた近所の主婦、朝起きない、掃除しない、ご飯作らない「専業主婦」、でも特に贅沢するでもない人だが、旦那の年収が半減したって嘆いていて、半減して年収2000万だって言うわけですよ。そらパートにすら出ないよな。掃除もダスキンにやらせりゃいいし。こういうの僻みっていうんだろうが、「額に汗して働いている皆さんが報われない世の中を是正する!」と選挙の候補者皆さんはいうけど、「額に汗して働く」ことのないようにするには旦那選びが大事だったんじゃないですか!いや、私は額に汗して働きたいと思いますよ。いや、もしかすると来世っていうものがあり、現生の過ごし方が内申点のようについてるのかもしれないですよ。来世ちゃんってドラマがあったね。「来世ちゃんとします」っていうものです。

 人生も夕暮れ時、左折も右折も許されない、突き進め後ろを見るな!

 というか私は最後の「主婦の尾っぽ」を持った人間なのだと強く思う。時代は進んでいるが、この前も書いたが人は「一つの時代しか生きられない」のである。いくら表面化けて離婚までしてもばけ損ねた狐のように尻尾が。

今の女の子はもう誰かに頼って生きようなんて初めから思っていないようだ。結婚はゴールでもないければ奇跡の階級上昇チャンスでもない。いつか王子様などやってくるのを待つくらいならキャリア形成してた方がいいし、人生は自分のためだけにあるのだ、という考え、でもそれ自体もまた古くなるということだけど。

 つまり内なる声に忠実に生きるしかないが、時代だの周りの人だの国だの色々なバイアスがかかるからね。四柱推命っていいよ。誕生日だけでその人は決まるという潔い考え方。むしろ平等だし、変な命式に生まれちゃったら即刻終了。

余談がずれまくって話長いが、つまんないピアノ弾く私の話だ。それは練習方法がマニュアル化されてるからだと思う。知ってるのにこのマニュアル練習方から抜けられない私。マニュアルというと誰かに手順を指示されてるような感じだが、まあそれは自分で計画してやるんだが、自分の計画に形骸的に従うという自分の尻尾を追いかけるような練習と言いますか、マニュアルに沿ってるので、できたかどうかよりマニュアル通りできたかが大事なので「本質に触れない」練習になるので結果この音なんだと思う。今日は本気で音変えようと思った。

余談:マニュアル化について。最近指示役に言われるがままに凶悪犯罪をする犯人たちがなぜそんなことできるのか?という話になっているが、それはマニュアルがあるに違いないからだ。その上もまたその上からマニュアルを提示されているのでそこに「考え」「感情」を挟む余地がないので事は進んでしまうのである。テレビで聞いた話だが、ナチスもこのやり方を使ってたようで、人はマニュアルがあると「心」を消せるらしいのだ。

 つまりそんなやり方をしていたら音楽などダメに決まっているが、練習にこのやり方を取り入れている私は練習やら演奏やらが嫌いなのかもしれない。その理論を逆にすれば「本質」に触れたくないものほど「マニュアル化」したくなるのではないか?

 私がマニュアル化せず「素手」でがっぷり取り込めるものって「教える」なんだよね。これは計画とかまるで立てないでその場で来た人に対面して考える。その場しのぎのようで(そういうところもあるが)そうでもない、何にもない方がその人に向き合えるというか(20年の蓄積はあるが、そこから何かを導き出すことを「しない」ことが大事だと私は思う。「類型化」はできるのかもしれないがしない。それはその人を見えにくくするだけだと思う)本質を捉えるって決して「予見」も「予習」も「計画」も立てられないものなのではないか?立てると本質が見えにくくなる。

そして「本質」を捉えられる「仕事」はあなたの「仕事」だ。決してあなたを飢えさせない、退屈させない、孤独にさせない。

 「やり方」を考えてからやろうとすることって多分向いてないことだ。

逆に言えば向いてないことをやろうとしているなら「やり方」「マニュアル」が必要ということなんでしょう。そこそこはできるようになると思う。

 ピアノを演奏する、は私が永遠にできないことなんだろうから、せめてうたくらい「演奏できる人」になりたいわ。

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