差別化としての声楽
日常に潜む退屈と、退屈な人々と、適当に緩くやってればいいのでは?でもそうもできない律儀さと真面目さ、うーん、自分の世界を持ちたい、この人々たちと差異化したい、などというまあ「不純」な動機で声楽を始めるというのは大賛成。日常と日常に疑義を挟まない退屈な人々と決別はできないが、それらを「許せる」ような次元を獲得できることをお約束しましょう。
ぜひ声楽でその手の「怨念」を晴らしましょう。
私もそういう不純な気持ちで声楽をはじめた者です。
大体「結婚」がダメだった。した日からダメな気がしたのは、今ならよくわかるが、昨日まで友達だったというのに急に「主人」になったり「ぽち」になったりする不条理。だって餌もらってんだからしょうがないじゃん、ではあるが、そしてそんなこと言われたわけではなく、私がこの今でいうところのジェンダーバイアスに深く急に気がついてしまったという、それまで女だから特権で遊んでたくせにですよ。
もう一生「ぽち」なのか・・。ぽちはしよんぼりしてしまいました。
ぽちからの脱却は働くことなのかもしれないと急にパートなんか行ってみたが、こんなことしてるくらいならおうちでよいぽちでいた方がなんぼかマシだと思った。
それなら本当の「ぽち」を飼おうと思った。6月に当時後楽園では保護犬の頒布会をやるので行くことにした。
いやいや犬じゃなくて子どもじゃないの?と「主人」は言ったが、正直私はそんなこと一回も考えたことがなかったのでびっくりしたのだ。
子どもができて公園ママデビューした。なんだか毎日泣くほど辛かった。子供はよく寝る良いこだし「主人」も優しいし、何が不満!と自分に問う毎日。全部持ってるのかもしれないけど何もない私。でも今までだって何をしてきたっていうの?働こうともせず、音楽と言っても才能などないことはむしろ少しやったからよくわかったし、子どもができて不自由になって急に何かやりたくなっただけでは?しっかり育てなあかんで、お母さんになったんやろ!
今のママたちはとっくに働くことと育児を両立している、それは時間がないだろうし毎度戦争のような日々だろうと想像できるが、この抽象的な「ぽちの苦しみ」は体験しないで済んでるよね。仕事が全部自己実現だなどと思っているわけではないがさ、子供を預けて「違うこと」できるって幸せよ。
今ならよくわかる。子どもは3歳まで家で育てた方がいいかどうか知らないが、母子が家で密着して暮らすことは高度経済成長期のほぼ20年くらいで、かなり特殊なことである。子どもが「お子様」に格上げされ、それは働き手ではなく消費者として期待されるようになった。家でママとお子様は消費してるだけ、「主人」は働いているだけという歪さ。でもそういう時代を経て、今ともに働く共産の時代だが、それもどうなのよ、家って家族が帰ってくる時に「セーフ」を言い、一点あげる人がいなくてはいけないと私は考える(ホームだからね)。それは「ママ」でなくてもいいんだけど、そういう抽象的な儀式の上に成り立ってんだよ「家族」は。日本会議のメンバーが夫婦別姓に反対なのもわかる。「家族」ってその手の「儀式」を蔑ろにしたら成り立たない。少なくとも日本会議の考えるような家族はね。
2人目が4ヶ月で一緒に家で昼寝をしている時に音大の同期から電話がかかってきた。同期でコンサートやるけど、お姉さん(と呼ばれていた)忙しいから無理だと思うけど一応連絡してみた、という電話に2つ返事で出ると言って、そこから私の声楽人生は始まったのである・じゃんじゃん。
音楽を理由に家をサボらない、家を理由に音楽をサボらない、と固く心に誓ったが、音楽はやがて「仕事」になり、仕事も音楽も家もになった。
その頃のことは忙しすぎてあんまり覚えてないのだが、今になって思い出すとよくやれたなあ、と。
働き者のぽちの横で「主人」はすっかりサボり癖と遊び癖と浪費癖がついてしまったが、忙しすぎて気にできなかったのもあるが、段々と私の「主人」は音楽になっていったのでした。
才能があるとかないとか、始めた頃は気になったものだが、今一線でスカラ座に立っているのでもない限り才能など誰にもないのだから気にすることはない。とにかく毎日祈るように練習をすること、これだという音を出すために、それが何んなるの?と思わず、ひたすら毎日下手くそなうた(いや、上手くてもいいんだが)をうたい続ける。ほらそうしたら毎日利息の入るような日々がやってくるのだ。
今日も昨日も新しい発見に満ちているが、それは昨日まで分からなかったということの証拠でもある。出来ない、わからない上等、それは尊いことなのだと知る。
周囲からの差別化のために始めた声楽はすっかり私を別の世界に連れてきてくれたと思っている。別に声楽でなくてもよかったんだと思う。でも声楽はお金がかからんでよろしい。さらに声楽等音楽の研鑽には時間がかかるので、消費をしなくて済む。「こういうこと」なんだと思うよ脱消費社会は。キーワードはモノよりコト、同調から差異化。
とは言っても今日亀戸ピアノの日は私の3週間に一度の消費ポイントなのだが(かなり細かい「ゴールドベルク組曲」の装飾音の指示を伺い気の遠くなるような集中力でレッスン)駅のアトレが休館日!隣の錦糸町へ行ったが西武だかが休館日!消費はやめて家に帰って練習しろってこと?